謎のゴンドワナ人

 

 掲示板に自分の受験番号がないのを確かめて、「ああ、これで死ねなくなった」とおれはつぶやいた。

 隣で制服を着た女子高生たちが抱きあって喜んでいる。「あった、あった」というでかい声で頭が痛くなった。おれはその場を離れた。

 もしおれが合格して、合格発表のその日に死んだら、おやじもおふくろも弟も、学校のやつらも、ずいぶん首をひねるだろうな、なんて考えていた。落ちてしまったんだからしかたがない。いま死んだりしたら、百人が百人とも受験に失敗したせいだと言うだろう。ばかばかしい。

 電車に乗り、家に向かいながら、気が重くなる。今日はおやじも会社を休んで家にいる。受かろうが落ちようがおれにとってはどうでもいいのだが、両親の慰めや励ましを黙って聞かなきゃいけないのが鬱陶しい。「気にするな。一度や二度の失敗くらい、長い人生から見ればなんだらかんだら」なんて、きっと言う。絶対言う。聞かなくてもわかっている。

 人ごみに押されるようにして駅の自動改札を通ると、おれはのろのろとバス乗場に向かった。平日の昼間だというのに、やたらに人が多い。二十人くらい並んで、みんなおんなじ顔をして、待ちくたびれたといった表情でバスのくる方角をながめている。その光景を見て、何だかむやみに腹が立った。

 弟は、できがいい。今日おれがふられた大学など、滑り止めくらいにしか思わないだろう。

 そのくせ、「僕は適当なとこでいいよ」などという。「どうせ社会に出たら、偏差値の一ランクや二ランク、意味なくなっちゃうんだからさ、今やりたいこともやらずに勉強ばっかしてるなんて、あほらしいよ」

 「そうそう」とおふくろがにこにこしながら相槌を打つ。

 「彰太、おまえも何かやりたいことがあるんなら、大学なんか行かなくていいんだぞ」とおやじが真顔でおれにいう。「自分の夢を実現させろ。人生ロマンがなくちゃ」

 お父さま。ではお聞きしますが、あなたのロマンはなんですか。八時の時報とともに家を出て、六時の時報とともに家に帰る。楽しみは風呂上がりのビールと、休日のゴルフ。

 お父さま、あなたにロマンとやらがあるのなら、子供に説教してるまに、サハラ砂漠でも南極でも、どこへでもいらしたらよろしいではないですか。

 わたくしは、やりたいことも、できることも、なんにもないから、しかたなく勉強してるんです。ほっといてください。

 重い足取りで家の前にかかったとき、おれは妙なものを見て立ち止まった。

 入り口の門の脇にへばりつくようにして、中をうかがっている奴がいる。

 むこうも同時に、おれに気づいたらしい。ぼろぼろになったベージュ色の膝まである上着を着た、小柄な若い男だ。逃げるかと思ったら、そのままじっとこちらを見つめ返してきた。後ろめたそうな顔もせず、珍しい虫でも見つけた子供のように、まばたきもせずにおれの顔を観察している。

 おれは変な気持ちで、そいつのそばを通り過ぎた。よっぽど「何かご用ですか」と聞いてやろうかと思ったが、話をするのも面倒な気分だったので、そのまま中に入った。

 ドアを開けたとたんに、待ち構えていた両親と目が合ってしまった。ごていねいに、弟までが階段口から顔を出している。

 「どうだった」三人が同時に言った。

 おれは答える気にもならず、目をそらしたまま黙って手を振った。

 「そうか」おやじは薄くなりはじめた額をつるりとなでて、「まあ、気にするな。一度や二度の失敗くらい、長い人生から見れば……」

 とたんに、おれの後ろでひどい音がして、おふくろが悲鳴を上げた。振り向くと、ドアがぶっ倒れて、もうもうと土煙が立っている。おれは唖然とした。

 土煙をかきわけるようにしながら人影がよろめき出て、突拍子もない声で叫んだ。

 「謎のゴンドワナ人、覚悟!」

 「何事だ、いったい」おやじがうろたえた声を出した。

 俺はそいつの顔を見て、「あっ、あんたはさっきの」

 「彰太、お友だち?」

 「大変失礼いたしました」ぼろぼろのベージュの上着を着た男は咳きこみながら一礼した。顔も髪の毛もほこりで真っ白になっている。「私、こういう者です」

 差し出した名刺には、住所も電話番号も何もなく、ただ、「奇談収集家 ミスター六軒」とある。

 「奇談収集家?」

 「さよう。全国を放浪し、不思議な話、奇妙なできごとを集めて歩くのが、私の仕事でして」

 「あの、立ち話もなんですから、どうぞ」おふくろが座布団を持ってくると、ミスター六軒は会釈して、上着のほこりを払い、上がりかまちに腰をかけた。

 「実は私、先日、このあたりを歩いていて、大変なものを見つけました」

 「何です。その大変なものとは」とおやじ。

 「人のうちのドアを蹴破るくらい、大変なものなんでしょうね」とおふくろ。

 「それはもう」ミスター六軒は大きくうなずいて、「全世界の運命を左右するくらい、大変なものです」

 「ぜんせかいの、うんめい?」おれたちはあっけにとられた。

 「そうです」ミスター六軒はふいに声をひそめた。「あなたがたは、謎のゴンドワナ人という名前を、お聞きおよびではありませんか」

 「なぞの、ごんどわなじん?」

 「そうです。全世界の警察や情報機関が、躍起になって行方を探している、正体不明の怪人物です。ゴンドワナというのは、地質学上、数億年前に存在したとされる超大陸の名前ですが、奴は何の意味でか、この消滅した大陸の出身であると自ら称しているのです。ところで、あの恐ろしい『アンデス山中眼鏡橋事件』についてはご記憶でしょう」

 「……さあ、いっこうに」

 「そうですか。では、『北極大会議室計画』をご存じではありませんか」

 「いや、まったく」

 「それは残念。とにかく、こういった国際的な大事件、大陰謀の陰には、必ずこの『謎のゴンドワナ人』の手が動いていると考えてさしつかえないのです」

 「何だかわからないけど、恐ろしいお話ですのね」とおふくろ。

 「そうです。謎のゴンドワナ人をなめてはいけません。日本の幸せな家庭ですら彼の魔手から逃れることはできないのです。私の知っているいちばんひどい例では、新婚早々の若妻が……」

 「新婚早々の若妻が」おやじがつばを飲みこんだ。

 「ああ、恐ろしくてその先は言えない」

 「あの」弟が口をはさんだ。「それで、うちとそれと何の関係があるんでしょう」

 「それです。実は私、先日、この近くで、その謎のゴンドワナ人の姿を見かけました」

 「えっ」おれたちはいっせいに驚きの声を上げた。

 「もちろん、私はひそかに跡をつけました。奴がこの平和な日本の住宅街で、いったい何をたくらんでいるのか、ぜひとも見とどけなければならない。すると奴は身を隠すでもなく、堂々と一軒の家に近づいてゆきます。訪問するのかな、と思っていると、驚いたことに、ポケットから鍵を出し、勝手知ったる様子で玄関のドアを開けて入ってゆくではありませんか。まさに、私は偶然に、奴のアジトを発見してしまったわけです」

 「やだわ」おふくろは首筋をなでて、「ご近所にそんな恐ろしい人が住んでいたなんて。どの家なんです」

 「この家ですよ」ミスター六軒は床を指差した。

 おれたちはいっせいに口を開けた。

 「そんな、あほな」とおやじ。「ここは、我々の家ですよ」

 「承知しています」

 「そんな、謎の権田原人なんて妙なものはいません」

 「権田原ではありません。ゴンドワナです。言い忘れましたが、奴は変装の名手なのです。どんな人物にだって、一瞬のうちに化けることができる。そうなったが最後、最も親しい家族でさえ、彼の正体に気づくことはないのです」

 「最も親しい……家族でさえ?」おれたちは、恐る恐るお互いの顔を見回した。

 「ばかばかしい」おやじが苦笑いした。「自分の家族くらい、わからなくてどうしますか。妻と結婚してからもう二十五年ですよ。子供たちとだって、十何年間、毎日顔を突きあわせてるんだ。よその人間がまぎれこんでるなんて、絶対にありません」

 「そうですか」ミスター六軒はおやじの顔を見つめた。「では、よその人間じゃないかもしれない」

 「えっ」

 「謎のゴンドワナ人の正体は、まったくわかりません。年齢、国籍、一切不明です。しかし、奴とて、どこかのだれかではあるはずです。もし、奴がふだんの時間を、一人の平凡な日本人としてすごしていたとしたら。世界を股にかけた恐ろしい陰謀をたくらむかたわら、まじめなサラリーマンの仮面をかぶって、妻をめとり、子供を作り、そうやって二十何年かを生きてきたとしたら」

 「何ですって」おふくろが異様な声を上げて、おやじのほうを振り向いた。おやじの薄くなりはじめた額には、深い縦皺が刻まれていた。口元をねじ曲げたまま、これがおやじだとは信じられないような張りつめた表情で、相手の顔を見つめている。

 「ここへくる前に私は、警察庁に連絡しておきました。まもなく、あの戦慄すべき『デトロイトのなまはげ事件』の現場に残された、世界でただ一つの謎のゴンドワナ人の指紋のサンプルを持って、係官がこの家に到着するはずです。いくら奴が変装の名手でも、指紋ばかりは変えられますまい……」

 ふいに、おやじが身を踊らせて、弟を捕まえると、後ろから喉を締め上げた。弟が悲鳴を上げる。

 「とうとう正体を現したな、謎のゴンドワナ人」ミスター六軒は叫んだ。

 「いかにも、おれは謎のゴンドワナ人だ」おやじは、おれたちには一度も聞かせたことのないふてぶてしい声で言った。「この子の命が惜しければ、そこをあけてもらおう」

 「あなた、それはあなたの子供ですよ」とおふくろが悲痛な表情で叫ぶ。

 「おれは孤高の魔人。家族などない」

 「そんな、それじゃいったい、私の一生は何だったの」

 「く、苦しい」弟が泡を吹きはじめた。

 「わかった、言う通りにしよう」ミスター六軒は戸口から身を引いた。おやじは油断なく弟を盾にしながら、そのそばを通り過ぎる。

 十分遠ざかってしまうと、おやじはミスター六軒のほうを向いて、あざ笑った。

 「さすがはわが宿敵、ミスター六軒、とほめてやりたいところだが、甘かったな。おまえ一人でおれを捕らえられるとでも思ったか。この悪の天才、闇の大魔王、謎のゴンドワナ人を!」

 それからおやじは弟をその場に突き倒すと、高らかな笑い声を上げ、びっくりするような速さでどこかへ走っていってしまった。

 おれたちはただ呆然として見送っていた。よほどたって、おふくろが虚脱したような声でつぶやいた。

 「うそよ、そんな……高所恐怖症で、飛行機にだって乗れない人だったのに。外国なんてもちろん行ったことなくて、毎晩六時には必ずうちに帰ってきて、年一回、一泊二日の熱海社員旅行以外は、一晩だってうちを空けたことのない人だったのに……」

 「ほんとですか」ミスター六軒は目を見張った。「それじゃ、謎のゴンドワナ人であるはずがないな」

 「だって、あんたいま……」

 「いや、実はあてずっぽうだったんです」ミスター六軒は頭をかいた。「このへんは似たようなうちばっかりで、どれが問題の家だかわからなくなっちゃったから、しかたなく片っ端からドアを蹴破……いや叩いてお訪ねしてたんです。お宅が三軒目ですが」

 「何ですって」おふくろは目をむくと、相手に飛びかかって首を絞めはじめた。「あの人を返して! いますぐ返して!」

 「まあまあ」ミスター六軒はおふくろの手からすり抜け、なだめるような手つきをした。「もしあのかたが謎のゴンドワナ人でないのなら、そのうち戻ってこられますよ。どういうわけか、自分がそうだと勘違いされたようだが」

 「あんたのせいよ! あんたが催眠術をかけたのよ!」金切り声で叫ぶおふくろをあとに、ミスター六軒は足早に歩み去った。

 

 おやじはその晩遅くまで帰らなかった。おれは二階のベッドで、天井を見つめながら、今日のできごとを思い出していた。あんなことが、本当にあるなんて。いままで、何があっても破れない固い壁だと信じていたところに、突然でかい穴があいて、風が吹きこんできたようなものだ。なんとなく、世の中それほど捨てたもんじゃないかもしれないと思った。

 それにしても、弟を突き倒して、高笑いしたときのおやじの、楽しそうだったこと。ひょっとしたら、あれがおやじのロマンだったのかもしれない。犯罪の天才、闇の大魔王。それがおやじが憧れ、でも絶対実現しないとあきらめていた、ひそかな夢だったのかもしれない。

 どこかの暗い酒場の片隅で、邪悪な喜びに目を輝かせながら、次はどんな悪事をたくらんでやろうかと思いめぐらしつつ、グラスをなめているおやじ。やがておやじは席を立ち、コートの襟を立てて、夜の街に歩み出てゆく。ポケットを何かで無気味に膨らませながら……。

 それなら、せめて今夜一晩くらい、思う存分楽しんでください。今だけは、おれたちやおふくろのことは、忘れてもいいですから。

 

 いつのまにか、玄関の呼び鈴が鳴っていた。

 

 

 

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著者

大澤 周帆

Copyright (C) 1998 Shuho Osawa